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プロデューサーとして、また全曲アレンジを担当した、伊藤毅氏によるアルバム”Naked Like The Rock ”全曲解説!!

なおけんバンド「Naked Like The Rock」

下記の文章はあくまで私、伊藤毅の偏向した主観に基づくものであり、なおけんバンド、メンバー、スタッフなど関係者の主義、主張、意見を代表するものではないことを最初におことわりしておきます。

全曲解説:

01:Enter NaoKen 

オープニングを飾る軽快なインストナンバー。「アルバム冒頭にインストを収録したい」とギターの藤田英直から送られてきたデモ2曲のうちの1曲。ヴォーカルの岩水研次と私はそのデモを聴いて即座にこちらを推した。おそらく藤田は今回使われなかったほうの曲(楽曲の名誉のために言っておくがクオリティという意味では申し分なかった)を収録したかったのだと思う。でもそちらはいまひとつ破壊力というかバカ度が足りなかったのだ。おそらく岩水もそう考えたのだと思う。

曲の方向性は藤田のデモの段階でほぼ完成していたため、アレンジに関してはほとんど何もしていない。アルバムの中でのこの曲の役割を把握し、曲のサイズと構成を決め、コード譜程度の簡単な楽譜を書き、スタジオに行ってドラムの中沢剛、キーボードの川嶋フトシと共にベースを弾き、そしておそらく1テイクでOKが出た。それよりもどちらかと言うと曲後半に入っている「コール」(体育会系絶叫)を、その場にいた数人で血管が切れそうになりながら何度も重ねた記憶がある。ひたすら、考えず感じるまま(Don't think, feel)に叫んでいた私を見てドラムの中沢剛がげらげら笑っていた。おそらくバカ度が足りなかったのだろう。押忍。

02:タンバリン 

王道感溢れるロックンロール。この一曲で「ロックンロールの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum:米国オハイオ州クリーブランドに実在する博物館)」入りを果たしてもよいのではないかとさえ思う。

作曲者である藤田のデモではもう少しハードロック色が強かった。その名残がイントロのアンガス・ヤングのような(いやもちろんAC/DCは最高のロックンロールバンドなのだが)ギターの雰囲気に残っている。それをややロックンロールよりの方向性にシフトさせた。川嶋フトシのイアン・スチュワートを彷彿とさせる転がるピアノはすばらしいの一言。

そして「だけど僕にはギターがない 君に聴かせる腕もない」という理由で「1280円のタンバリン これしかないのさ」と、まるで巨大な何かに丸腰で戦いを挑むようなあぶなげなこの曲の主人公は、殿堂入りする気ももしかしたらそんなもの自体が存在することさえも、まったく知らないのかもしれない。だとしても「伝えたいことが山ほど」あって「噴火寸前の熱い感情」を持っていれば、たいていのことはどうにかなる。おそれる必要はない。


03:ミドリガメ 

硬質かつエッジーなロック。デモの段階ではそのマイナー調なメロディとややネガティヴな歌詞の内容に寄せる、という意味で打ち込みのリズムによるデジロック的な曲になる予定だった。

だがこの曲の世界では、どちらが主人公なのかはさておき、おそらく人間と小動物が小さな水槽越しに対峙しているわけで、その映像のバックにプロディジーやマッドカプセルマーケッツ、(個人的には泣くほど好きな)ブンブンサテライツ的な歪んだデジタルビートを合わせるのはややトゥーマッチなのでないか? と思いなおした。同じ爬虫類でもこれは“ティラノサウルス・レックス”や“ヴェロキラプトル”でない「ミドリガメ」なのだ。

最終的なアレンジの方向性はエレクトリック&アコースティックギターの響きを生かしたバンドサウンドになり、デジロック的なアプローチの名残はギターに先導/扇動されて鳴り始める冒頭のドラムのフレーズ(人間には叩きづらいであろうこのリズムパターンをなんなくものにしたドラムの中沢剛に感謝)と、その後ろでかすかに鳴っている歪んだリズムマシンの音のみとなった。そのファクシミリの通信音のようなかすかな音こそが、世界となんらかのネットワークで繋がっているであろうミドリガメの声なき声に聴こえて仕方がないのだが、私はミドリガメの本当の鳴き声を知らない。


04:アニマルスーツ 

黄色いファンク。むしろディスコ(襟が少しデカい)。斜にかまえたように見せかけて、実は真っ直ぐにフル・スイングしているという岩水ワールドの真骨頂。

歌の中でも歌われているであろう明治維新や開国というイベントによって、日本がどのようなパラダイムシフトを経て現代に至ったのか? という考察は学者に委ねるとしても、我々は常に超大国からカモられる側である、ということだけは意識していたほうがいいかもしれない。この変わり続ける時代に人種国籍信仰東西南北上下左右イデオロギーに関係なく、たとえ「虎の威を借り」ようとも守らなくてはいけないものは、ある。この歌の中に出てくる「どんな時代でも 自分をしっかり持って」というフレーズを、私はJ-POP(これも非常に差別的なワードではある)の歌詞の中で初めて聴いたような気がする。しかも岩水はそれを真顔で歌っている。しっかりしろよ、と。

音楽的には歌詞の内容を踏まえて時代をやや飛躍させ、70年代後半のディスコ風(私が高校生の時分である80年代にはすでにもうスタンダード化して新宿B&Bなどでかかっていたビージーズ、当時は少し新しめだったボーイズ・タウン・ギャングなど)のテイストを取り入れるべきだと思いアレンジを施した。さらに“あの感じ”にすべくシルヴェッティやポール・モーリア的なストリングスのフレーズを加えたのだが、あまりそうはなっていないのは私が借りたのが「猫の威」だったせいかもしれない。しっかりしなくては。


05:行合の空 

平成歌謡である。もちろんいい意味で。タイトルの「行合の空」とは歌詞の中にも出てくる夏の入道雲と秋の鰯雲が同時に存在するような夏から秋にかけての時期のこと。

不穏な匂いのする歌詞にスタンダードなメロ。彼らの作品の中に見られるある種の「昭和感」は、その時代に馴染みがない人にとっては新鮮に感じられるかもしれない。

野暮を承知で音楽的な解説をすると、岩水と藤田の二人が弾き語りでやっていたギターのリフはそのままイントロや曲中で生かし、ある意味日本のポップ・ミュージックの最高峰のバンドである「安全地帯」の感じをリズムとシンセなどに込め、それを90年代以降のスティングやダニエル・ラノワ的な空間/空気感で広げ、「夏の明るいはずの風景が、眩しすぎるゆえに逆にドス黒く見えるあの感じ」を浮遊するエレピやアンビエント的なドローンサウンドであらわしてみた。

ちなみに1990年代は昭和ではなくすでに平成だったわけで、たった20数年前なのにあの時代は物質的にも精神的にもまだ余裕があったような気がする。もうここ何年も夏の終わりに気がつかず、気がついたら秋を通り過ぎ、冬にまでなっているような日々、もう後戻りはできないことがあの頃の歌謡曲のようにとても切ない。


06:ナチュラルキラー 

「ロックはできてもロールはむずかしい」とキース・リチャーズは言った。もしかしたらそれはアーサー王の伝説のようなものなのかもしれないが、たとえ技術的に優れたプレイヤーであっても、ローリングストーズの「Rip This Joint」のようにご機嫌にスイングするロックを「ロールさせて」演奏するのは容易なことではない。

そこで私はマッド・サイエンティスト的に、共通しているのは「スイングしている」だけという三種類の異なるグルーヴ(そのハネかたも微妙に違う)を同じ鍋に入れてかき混ぜてみた。

デモの初期段階ではこの曲はロカビリー・テイストだった。そこにもはやメイド・イン・ジャパンに近いタイプのモータウン的なビートを加え、まだ歌にフィットしないオケを聴きながら、これをカイゼンするためにさらに足し算でもうひとつ何かが必要だと思った私は、伝統的かつこのテンポではおそらく難易度が高いであろうブギウギピアノ(リトル・フィートのビル・ペインがあのぶっとい腕を鍵盤の上で転がしながら弾くタイプのやつだ)を川嶋フトシに弾いてもらうことにした。

それぞれグルーヴとハネ方が微妙に異なるロカビリーとモータウン、そこにヴォードヴィル的なブギウギというさらに違うジャンルのテイストを加え、黒と白と黄の行き来を(やや力技で)モーフィング、それぞれにそれぞれの橋渡しをさせたわけだ。それが果たして「ロール」に繋がっているかどうかの評価はあなたに委ねるとして、もしかしたらこれはちょっとした発明なのではないか? と私は密かな自己満足に浸っている。平成も終わりかけたこの時代にカンカン踊りをしているようなものだとあなたに笑われてもかまわない。岩水も歌っている。「犬も笑えよ ついでに猫も笑えよ」と。


07:珈琲を溢さんかったら 

アルバム唯一のバラード。典型的なスローソングの循環するコード進行に合わせてトーキング調の関西弁で歌われるこの名曲を、私はレコーディング中密かに「なにわのパープル・レイン」と呼んでいた。あちらは“週末だけの恋人なんて僕は望まない”のだが、こちらは数年、もしかしたら数十年に渡るすれ違いをまるで昨日のことのようにあざやかに、そして遠い昔のことのように懐かしく、同時に現在のこととしてややユーモアも交えて描いている。

その演じるように歌われるヴォーカルの機微に合わせて、見守るように突き放すようにグルーヴする中沢剛のドラミングはお見事の一言。スネアのタイミングなどはヴォーカルと共に“歌って”いると言っても過言ではないだろう。ドラムだけではない。ベースも、ギターも、エレピも、みなこの二人のストーリーに耳をそばだてながらプレイしているかのような(実際そうだった)一体感だ。

そして私はこの曲を仕上げるにあたって「この歌の中の二人はこのあとどうなるのか?」を考えた。いくつかのパターンがあるとは思うが、私としてはこの二人はこのまま、すれ違ったままお互いの人生を歩むのがいいような気がした。イントロの E-BOW (エレキギターによる持続音)とオカリナの定位をすっぱり左と右のチャンネルに分け、リバーブ成分でさえも交わらないようにした理由はそれだ。たとえ切なくても、人生はシンプルにしておいたほうがいい。


08:Naked 

おそらく非常に個人的なことが歌われているであろう楽曲を、電子音とバンドサウンドのハイブリッドに仕上げた。ただし前作『サティスファクション』に収録されている「逃亡」と違い、こちらは歌の内容に照らし合わせ、やや大きめな世界を目指した。

実際のレコーディングでは私がシンセとサンプラーでこしらえた打ち込み的なベーシックトラックのデータをスタジオに持ち込み、それを下敷きにしてドラム、ベース、ピアノなどのパートをダビングしたのち、再びデータを拙宅のプライベートスタジオに持ち帰り、ヴォーカル、シンセのダビング、藤田から送られてきたギターとバック・ヴォーカル系のオーディオファイルの追加と編集などを行なった。

それら各パートの音が集う過程で、この曲は私の意図していない方向に変化しはじめた。「(勝手に)いい感じになりはじめた」のだ。小説家や漫画家の方々がよく言う“登場人物が一人歩きをはじめた”などと言うのはおそらくこんな感じなのだろうと思う。私はそれをまるで他人事のようになりゆきにまかせてただ眺めていた。こういうことは、すぐれた楽曲とメンバーがそろっている場合(そこでのアレンジャー/プロデューサーの存在と意図はあまり重要ではない)には稀なことではなく、スタジオでバンドが生で演奏しているときなどにもたまにある。もしもそうなってしまったら運良くエンジニアか誰かがレコーダーを回していることを祈るしかない。

私は、人間が音楽をどうこうできる、などという不遜なことはできるだけ考えないようにしているし、音楽は数学的なまでに神秘的で美しく、人間ごときの手のおよぶところではないということも理解しているつもりだ。なので「子供」が一人歩きをはじめたら、なるべき姿になるようになるのをわれわれは黙って見守るしかない。そしてそれがおそらくたったひとつの冴えたやりかたなのではないかと思う。


09:交差点 

平成のジャズ・ロック。岩水と藤田のデモの段階では「サイモン&ガーファンクル的なフォークソング」を二人は想定していたようだが、この一見非常にドメスティックなある意味演歌的な歌の世界(と歌詞に巧妙に隠されたトリック)をそこに押し込めるのはやや危険な予感がしたので仕上がりはそうはなっていない。

レコーディングに参加してもらった、なおけんバンドのライヴでもおなじみのドラムの中沢剛とピアノの川嶋フトシは、普段はジャズやラテン、セッション系の現場で活躍している腕利きのプレイヤーだ。前作『サティスファクション』にはややジャジーなアレンジをほどこした楽曲も収録しているが、それは歌の内容を考えてあえてフェイク気味な方向性になっていて、彼ら二人のプレイヤーとしてのポテンシャルをフルに発揮しているとは言い難い。

そこで今回は二人の演奏をもう少しフィーチャーするつもりで、ロックではそう多くはない三拍子でグルーヴするドラム、ジャジーかつたゆたうポエティックなピアノ、どうにかついて行っているレベルの私のベース、藤田のヴァン・ヘイレン的5150のブラウン・サウンドでリアンプされたロック・マナーあふれるギター、などでまとめた年代不詳な感じに演奏してもらった。スイング/スウェイするライヴ感あふれるジャズロック的なものになっているのではないかと思う。実際、ベーシックなリズムトラックは一発録りである。

...と、ここまで書いてみて、あらためて完成したこの曲を今の耳で聴き直してみたのだが、意に反してその演奏は意外なほどスムース、つまりここに偉そうに書くほどの難しい演奏には聴こえず、つまり中沢と川嶋両名にとってはもしかするとまたしても「F1ドライバーに縦列駐車をお願いする」レベルの仕事だったのかもしれない。


10:お菓子なテーマパーク 

これはひたすら楽しかった。本人たちによるデモを聴いた瞬間に「これはビートルズ(をダメにした)的な感じでやろう」と私は考えた。もちろんカッコ内の言葉は伝えていない。いわゆるマージー・ビートに、本人たちのデモの段階ですでに入っていたギロとオカリナを加えたサウンドに、このある意味非常に社会的な歌詞を乗せたロックンロール(そういうものこそが由緒正しいロックだと私は思っているのだが最近はそういうもの/ことが嫌われているらしい)、つまり平たく言うと真剣にふざけてみたかったのだ。

肩にチカラが入っていないリラックスした状態、というよりほぼ脱力したテンションでその日程の後半に行われたこの曲のレコーディングは、手元の記録を見る限り2テイクしか演奏されていない。しかも採用された大部分はその1テイク目。“ファースト・テイク・マジック”(最初にやった演奏が一番いい、という音楽業界での言い伝え。演者がすぐれていれば特にそうなる)というのは本当にあるのだ。人間、ちょっとふざけているくらいがいいのだろう。

藤田のフェンダー系ギターによるトワンギング・サウンド、川嶋のニューウェイヴ系サーフィンサウンドのコンボ・オルガン、ダビングされた中沢のパーカッション群(コンガ、シェイカー、タンバリン、その他もろもろの打楽器10トラックほど)などをそれぞれ「偽装された寓意」として加えた。

そんな彼らの演奏の面白みに、深夜のスタジオでの編集中の私はひたすら半笑い状態で、特に曲中に何度か聴こえるホイッスルの出のタイミングを決めることに多くの時間を費やしたのだが、それを書いたところでただ単にふざけていると思われるだけなのであまり強調はしないでおく。


11:Flower 

ヴォーカル岩水の手によるミディアムスローなロックソング。おそらく今回のアルバム収録曲中もっとも古い。岩水が台湾で活動していたバンド時代の曲だ。

台湾期オリジナルはJ-POP的サウンド、初期のなおけんのライヴでのフォーキーなスタイル、リアレンジを開始した当初のオルタナ風ギターサウンドという紆余曲折を経て、やや英国的な王道のバンドサウンド、というあなたが聴いている今の姿となった。オリジナルにあった少し湿り気を帯びた昭和感は決して悪いものではなかったが、この楽曲自体がもともと持っているある種のひたむきさ、けなげさを活かすべくオケ自体はできるだけシンプルで乾いた感じにした。

語弊と誤解をおそれずに言うと、この曲はどの時代にどんなスタイルで演奏されてもそれなりに聴けるのだ。楽曲の持つ力によって状況と環境に左右されないというか。私の仕事はそれをひと押しするだけでよかった。少し地味で、出しゃばらないけれどなくてはならない存在。事実彼らのライヴでもほぼ毎回欠かさず演奏されている。置かれたところで咲いている、そうなりたいものだ。


12:アイデンティティー 

密室打ち込み系ひねくれロック。踊りづらいのではないかと思う。開放的な「Naked」とは違い、フロアフレンドリーとは言えないこの曲は歌詞のひねくれポップさ加減に合わせて、どちらかというと閉鎖的というか密室的な感じになっている。作業工程的にも外部のレコーディングスタジオはほぼ使わず、曲のテンポにあわせて叩いてもらった中沢剛のドラムを持ち帰って分解/編集、808/909などのリズムマシンと合わせて基本のグルーヴを作り、ベース、シンセ関連、岩水のヴォーカルなどはほぼ拙宅のプライベートスタジオで、ダビングのエレキ、アコギ、バック・ヴォーカルなどは藤田とのファイルのやりとりで作り上げた。

そして「違いは個性」という当たり前のことを大声で歌う岩水のあまりにもロックなアティチュードに影響されてアレンジ的にも少し工夫をした。ドラム、パーカッション、ベース、ギターなどそれぞれが少しづつ異なるフレーズ、違うグルーヴにしてある。全体で聴けばあまり違和感はないだろうが、ひとつずつ取り出すと中期の XTC やここ最近のクリムゾン(もちろんあそこまで複雑ではない)のように、それぞれのパートに違うことをさせている。

聞いた話によると、生物学的にも多様性がない種は結果的には滅びるのだそうだ。だとすれば独りだがおそらく一人ではないこの曲の主人公(たち)は案外たくましく生き延びていくのではないか。みんな違ってて、みんないい、のだと思う。


13:Love&Peace 

「誰もが平和について語るけど、誰もそれを平和的な方法でやらないんだ」とジョン・レノンは言った。岩水と藤田はそれを真っ向から真っ当なやり方でやってのけようとしているのではないだろうか? 少なくとも夢想家と言われることなどまったく恐れてはいないように私には見える。

アルバムのラストを飾るのはライヴでもおなじみの、サビで繰り返されるタイトルコールが印象的なこの曲についての解説は特にいらないだろうがあえて書くと、日本的に解釈したモータウン・ビートのリズムパターンとバンドサウンド、伸びやかなギターとそれをささえるピアノ、天井までの空間を高くするためのチューブラーベルズ、空間に浮かび上がるダニエル・ラノワ的なアンビエント系シンセ、ミックスとマスタリング時のMS処理によってさらに浮き出てきたディレイやリバーブなどの残響系サウンドなど、あのフィル・スペクターには遠く及ばないかもしれないが、果てしなく広がる歌の持つ世界観(この場合は“世界についての統一的な見解”の意)に合わせて、サウンドの世界も上下左右にできるだけ広げた。

それと身も蓋もないことをストレートに(「王様は裸だ」と言わんばかりに)歌うがゆえにむしろ非常にロックンロールを感じさせる岩水の存在を、まるで聖母の優しさで見つめるかのようなバック・ヴォーカルを加えてくれた尾崎久美子と角久仁子の天使の歌声に特別の感謝を。

そして最後まで私の冗長な解説に付き合ってくれたあなたに感謝します。私たちはメンバー、サポートしてくれるミュージシャン、スタッフとともに最大限の努力をしてこのアルバムを完成させました。あなたが彼らのアルバムを楽しんでくれて、もしも気に入ってもらえたとしたらとてもうれしい。彼らに代わって特大の感謝を。ありがとう。ではまた。

All you need is Love (& Peace).

2018年6月9日

伊藤毅 / Tsuyoshi ITO
http://www.itotsuyoshi.com
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